6月5日放送の金スマSPに日本一熱い男松岡修造さんが登場していました。実はテニスを始めたばかりのころ落ちこぼれだった松岡修造さんが生み出した修造語録。その言葉の秘話が紹介されていました。

失敗したらガッツポーズ

この言葉の意味は「ミスをしたらくよくよするよりも喜ぼう」という言葉です。

父親や周囲の人間からテニスに関して「お前はテニスの才能がないんだ」「絶対ミスするな」「繋げ!相手より一本多く」とテニスを教わってきたそうです。

そんな松岡さんが所属するテニススクールのアメリカ合宿でのこと、対戦相手だったアメリカ人は失敗しても積極的な姿勢を続けることに徹してました。松岡さんとは正反対のプレースタイルです。

結局そのアメリカ人選手に負けて、なぜミスしても平気なのか聞きにいったそうです。その時に言われたことが「ミスは悪くない。そのおかげで欠点がわかることもある」ということでした。

松岡さんはこの時にミスは悪くないということに気付けたそうです。この気づきを「僕の人生にとっても最も大きなことだったんじゃないかなと思います」と語っています。

失敗から学ぶことが多いこと、そして失敗を恐れたらプレーの幅が狭まることに気が付けたのだと思います。

だから『失敗したらガッツポーズ』なんですね。

心の中に鬼コーチを持て!

「つい怠けそうなとき叱りつけてくれる存在を心の中に育てよう」

高校時代、試合に勝てなくなった頃もあり、当時は指にたこができるほど麻雀をしていたことがあったそうです。その中でこのままではいけない思い、テニス強豪校の柳川高校に転校したのです。

自分を変えることができなかったので、環境で自分を変えてもらう作戦にでたのです。

松岡さんは「僕から見るとメンタル的には楽な場所なぜならやらざるを得ない場所だったから」と語っています。

やらされる方が自分で動くよりもメンタルは確かに楽です。

しかし、柳川高校の練習は想像を絶するものだったそうです。何度もやめたいと考えたそうです。

するとある日、自分の心の中からこんな声が聞こえてきたそうです。

「おい修造さぼるのか強くなりたいんじゃねぇのかよ。だったらやれよ。自分に負けるな…」と心の中の自分が鬼コーチのように叱ってきたのだそうです。

楽な方を選んでいるときに「本当にこれでいいのか?」「お前これが本気か?」って怒ってくれる鬼コーチがどうにか支えてくれるのだそうです。

そう自分に負けないように、心の中に鬼コーチを持て!なんですね

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ポジティブ勘違いばんざい!

「勘違いでも前向きなものならば大きな自信につながる」

松岡さんはボブ・ブレッド氏に見いだされて19歳の時にプロテニスプレーヤーとしてデビュー。阪急東宝グループに用意されていた椅子を蹴ってのプロテニスプレーヤを選んだことから「反骨の御曹司」と呼ばれたそうです。

しかしプロになった当初はほとんどが予選負けだったそうです。そして苦手だったボレーを克服するために練習をしたかったそうですが、予選負けをした選手はコートを使うこともできず、日本人の練習相手になってくれる人はいなかったそうです。

松岡さんは「世界に行って一番辛かったのは練習相手を見つけることができなかったということです」と語っています。

しかし、どん底から這い上がらせるきっかけになる言葉が生まれるのです。

苦手だったボレーがうまく決まった時に「よし!ナイスボレー修造」と叫んだそうです。ボレーが1球でも入った時に褒めて行った「ナイスショット!」って

松岡さんは「ボレーおまえうまいぞ!って変な意味で勘違いをしていったすると不思議に自分を信じれるようになった。その自信っていうのがプレーにどんどんつながっていった」と語っています。

1988年ジャパン・オープン大会のこと

世界270位前後の時に世界ランク7位のミロスラス・メシール選手と対戦して勝利を収めた。しかし試合後にメシールは腰を痛めていたことが判明。それを聞いた松岡さんは「違うぞ修造。実力で勝ったんだ!」と勘違いをするように言い聞かせた。

その後、当時世界ランク1位のジョン・マッケンローと互角の戦いをすることができたのです。

松岡さんは「メシールに勝って「俺はもう世界の仲間入りしたんだ」って僕は自分の実力で勝ったって本気で勘違いした。だからジョンマッケンローと対戦したときには今までの松岡修造ではなった」と語っています。

松岡さんは1989年には世界ランキング60位に入ることになったのです。いい意味で勘違いすることは自分の実力を伸ばすことになるということですね。

できるできないを決めるのは自分だ

「限界だと決めつけて諦めているのは環境のせいではなく自分の心だ」

松岡さんが諦めた試合がありました。それは世界ランク9位だったピートサンプラスとの対戦の時のことです。対戦当日に熱が39度近くの熱があった松岡さん。

さすがに勝てないと思い父親になにか言葉をもらおうと電話をしたときに父親から言われた言葉は「そんな気持ちで戦っても無駄だ、すぐに帰ってこい!!」と言われ電話を切られてしまったそうです。

松岡さんは父の言葉に半ばやけくそになって試合に出場。松岡さんはできる限りの試合をしたそうです。そうしたら、ピートサンプラスに勝ったのです。

松岡さんは「人ってわからないものだなって。限界をつくらなければ諦めない。絶対あきらめちゃいけないんだなってそこで感じましたね」

限界を自分で作ってしまうとそれ以上の成長はないということですよね。やるもやらないも自分次第ということですね。

苦しいときほど笑ってごらん

「苦しいときムリにでも笑顔を作れば前に進む力になる」

松岡さんは夢のウィンブルドンが目の前に迫ってきたある日、両膝の半月板を損傷してしまったのです。試合にでることができないのでランキングも降下し夢のウィンブルドンが遠のいてしまったのです。

この時自分に起こったけがを受け入れることがなかなかできなかったそうです。

そんなときに松岡さんはリハビリの先生から松岡さんのファンの女の子がいることを聞き、病室に会いに行ったそうです。その子は笑顔がステキな女の子だったそうです。

後日、リハビリの先生に女の子の様子を聞いたところ白血病で亡くなったことを聞かされます。松岡さんは残りの命がわずかで不安や恐怖そのつらさのなかで見せてくれた笑顔のことを思うと涙がとまらなかったそうです。

松岡さんは「あの部屋で会った修造さんは私の分まで頑張ってくださいっていう笑顔は僕は一生忘れられない。その状況を知ってからはたかが脚のけがでどうやこうやいってる自分が情けなくって。」修造おまえ本気で生きろ!すべて出し尽くしているのか!?って真正面から言われたような気がする。

この彼女と会ったことをきっかけに本気でケガに向き合えるようになった松岡さんは本気でケガと向き合えるようになったのです。

1990年に復帰するもその9か月後今度は左足の靭帯断裂。

この時は心折れることなく、動かせるところから、できることからやっていこうと思いできるところから筋力訓練をしていたそうです。

そして1991年2度目の復帰。そして1992年日本男子初の公式戦優勝を果たすのです。世界ランクも45位をマークしました。

しかしその翌年、伝染性単核球症という病気にかかってしまいます。ここからも何とか復帰をしますが、コートに立った時には30秒すら動けなかったそうです。

この時はさすがにあきらめかけたのですがその時によぎったのが女の子の笑顔だったそうです。

松岡さんは「何か僕が追い詰められたり悩んだり無理かなって思うとき彼女の笑顔が出てくる」

彼女のように笑ってみた松岡さんは気持ちが前向きになってもう一度頑張ろうと思えたそうです。

松岡さんは「不思議と笑顔でいるとマイナスの思いってでてこないんですよね」と語ります。

崖っぷちだ~い好き

「ピンチの時こそ普段以上の力が発揮できるはず」

1993年から2年間不振に陥りランキング100位以内に入ることができないでいました。

この時のことを松岡さんは

「引退って2文字が周りからどんどん囁かれるようになった。そして自分の心からももう限界なのかなって」

そんな時にウィンブルドンの本選に欠員がでたために松岡さんに出場権利が回ってきたそうです。

そして1995年ウィンブルドンにてベスト8進出を果たすことができたのです。

松岡さんは「あの最悪の状況で入れたことによって崖っぷちのありがたさというのを僕は自分の中で感じることができました」と語っています。

人は後がなくなった時ほど想像を超える力を発揮できることを松岡さんは身をもって体験することができたのですね。

 

紹介されていた修造語録は自分の生き方にとってもかなり役立つものでした。苦しいときしんどいとき修造さんの言葉を思い出すように心がけます。

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