やりすぎ都市伝説で、坂本龍馬に関する話をしていたのが東MAXこと東貴博さんです。

東さんは瀬戸内海に消えた龍馬の財宝について語っていました。

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瀬戸内海に消えた財宝の舞台は鞆の浦

広島県、瀬戸内海に鞆の浦という場所があります。鞆の浦は日本で初めて国立公園に認定された美しい港町です。宮崎アニメの崖の上のポニョの舞台になった場所でもあります。

そして、鞆の浦は歴史上でも大きな出来事があった場所でもあります。

その中心物が坂本龍馬です。鞆の浦はいろは丸沈没事件が起きた場所なんです。

いろは丸沈没事件で莫大な賠償金を得ることができたのは…

いろは丸沈没事件は1867年鞆の浦おお気合で坂本龍馬が乗ったいろは丸と、紀州藩の明光丸という軍艦が衝突事故をおこします。そして、坂本龍馬が乗った船いろは丸が沈んでしまいました。

この衝突事故による賠償をめぐって大論争が巻き起こったのです。

龍馬の主張は銃が400丁・金塊80000両程乗っていたそれを紀州藩に賠償しろと訴えました。8万両と言うのは今のお金に換算すると164億とも言われているのです。

紀州藩に非があるとはいえ、紀州藩は安々とはお金を払うわけにはいきません。

そこでこの交渉を有利にすすめるためにバックアップしたのが、龍馬の上役でもある、後藤象二郎。そして後の三菱財閥の基礎を作る海援隊の会計係の岩崎弥太郎でした。

この2人が交渉をしていくことで紀州藩との交渉は有利に進めていくことができました。

坂本龍馬はいろは丸の沈没事件での賠償金を紀州藩に払わせるために、紀州藩は償いをせよという歌を作り、繁華街で流行らせて世論を見方につけたのです。

これによって紀州藩から160億円以上といわれる賠償金を手に入れる事ができるわけです。

いろは丸本当は何も積んでいなかった?

いろは丸は海底に沈んでいるのは発見されているのですが、海底に沈んでいるいろは丸を4回ほど潜水調査を実施しているのですが、龍馬が主張していた銃と金塊は出ないどころか、これまで1丁の銃も発見されていないのです。

さすがにこれだけのものを積んでいて何一つ発見されていないということになると、何も積んでいなかったことも否定できなくなります。

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この謎を解くのが莫大な賠償金の行方

しかし、坂本龍馬にこのお金が渡ることはありませんでした。

賠償金は紀州藩から後藤象二郎を通じて土佐藩に支払われ、そこから、海援隊の坂本龍馬に支払われる予定でした。ですが、後藤象二郎から賠償金を受けるために坂本龍馬は京都に居ました。

その京都で暗殺されてしまうのです。

莫大な賠償金は誰にてに渡った?

賠償金の騒動は明治維新のあと、世の中がゴタゴタとしていたこともあってそのお金が何に使われたのか記録が一切ありません。

しかし、明治維新の後、後藤象二郎の援助を受けて岩崎弥太郎は三菱商会という会社を立ち上げます。

これが龍馬が行っていた海運業で成功するのです。そして今の三菱財閥の礎を築いてて行くのです。この資金はどっから流れてきたものか、誰が龍馬が亡くなって本当に一番得したのか…

それを考えると、後藤象二郎と岩崎弥太郎が手を組んで暗殺をしていたのかもしれません。

後藤象二郎と岩崎弥太郎が暗殺をしていた影

長崎県にあるグラバー園。その横にあるオルト邸というものがあります。オルトは日本で20代の若さで莫大な富を築いて、イギリスに帰った人物なのです。

オルト邸の中に応接室があって、坂本龍馬が困っていた時に岩崎弥太郎とオルトと会談をしている事実があるのです。

ここで岩崎弥太郎が居た理由。それはオルトと岩崎弥太郎が結託して、坂本龍馬を暗殺する計画をたてていたのかもしれません。

まとめ

今回はやりすぎ都市伝説で東MAXが語った坂本龍馬に関する鞆の浦で起こった事件に付いてまとめました。

どの時代にも表と裏があります。本当の歴史を知ることが出来るのはほんの一部の人間だけだということですね。

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